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3-2尾崎秀實(ほつみ)、敗戦革命へ

祖国防衛から大東亜共栄圏への転換

 日本が戦ったのは、米英戦争までの「支那事変(日支事変)」であり、以後の大東亜戦争なのです。

 戦力は根拠地からの距離の二乗に反比例するというのが基本です。日本海軍は、この原則を踏まえ漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦によって戦略を構築していました。予め敵艦を前方で漸減して、日本近海において迎え撃つという守勢戦略です。このために、新巡洋艦、潜水艦を充実させ、大艦巨砲(戦艦大和型)を建造してきました。
 連合艦隊司令長官・山本五十六は海軍の伝統的な守勢戦略を放擲して、真珠湾の奇襲を敢行しました。しかし、模擬攻撃で繰り返したはずの二次攻撃を怠り、その後の戦局が不利になります。この司令官が、下記のハンモックナンバーによるものでした。

 真珠湾の奇襲の是非を含め、310万人の戦没者のためにも敗戦の総括はしなくてはならなかった。戦争目的はともかく、「戦争設計」はあったのか。国力を総動員して建造した戦艦が、なぜ、「大和ホテル」や「武蔵御殿」と揶揄されたのか、その程度の総括をする自由すらなかったのか。
 とはいえ、戦後の日本は「閉ざされた言語空間」に閉じ込められ、その声も掻き消されたのかもしれない。

 米軍は、ミッドウェー海戦前に日本海軍の暗号解読に成功していました。ミッドウェー海戦は、相手が待ち構えているところに、索敵がままならないまま近づいてしまいました。
 日本軍の攻勢の終末点となったガダルカナル戦も、そもそも、日本人がどこにあるか知らない島に、なぜ陸軍が出動しなければならなかったのか。とても「戦争設計」があったとは思えないのです。むやみに戦線を拡大して、戦後を担う大切な人材を失いました。

 敗因の一つは、海軍の「ハンモックナンバー(海軍兵学校の卒業席次)」に代表される、硬直した人事にあったと思います。このエリート互助会は、現在の財務省等に引き継がれ、官主導の硬直した政策により日本経済は坂道を転げるように悪化しています。

 とはいえ、恵まれた時代に生まれた一日本人として、欧米に立ち向かった日本の孤独をしみじみ感じます。シナ大陸では欧米には許されることが、日本には許されなかったのです。欧米の「自由と正義」というのは白色人種だけのもので、有色人種である日本には認めないという「利己と矛盾」がありました。

 戦後の日本は、東西冷戦という僥倖もありましたが、前線で匍匐し銃後を守った先人によって奇跡的な成長を遂げました。戦後世代の私たちは、先人の努力による奇跡の経済成長の果実を貪り、戦略を忘れ情緒に縋る自堕落な時代を次世代に引き継ごうとしています。

 このことを一番喜んでいるのが、大事を成し遂げた安堵のなかで刑死した尾崎かもしれません。

 第一次近衛声明の前後の状況

 1937.6月~1939.1月 第一次近衛内閣

 1937.7.7 盧溝橋事件 これより支那事変へ

 1938.9.27 石原莞爾更迭

 1939.1.16 陸軍参謀本部の反対に抗い、近衛文麿は「国民政府対手とせず」の声明をだす(事変拡大のための予算措置、近衛のブレーン、尾崎秀實らによる支那事変長期化の世論涵養)
 大東亜共栄圏構想 民族の自律と解放を謳う(支那事変長期化プロパガンダ)
 1940.7月~1941.10月 第二・第三次近衛内閣

 1940.9.27 日独伊三国同盟締結により日本は枢軸国に

 1940.10.12 大政翼賛会によって政党政治の終焉、内閣は軍部の傀儡となる(共産主義者の台頭)

 近衛内閣の足跡をみてみると、第一次から第三次近衛内閣の間に、あらゆる重大な決定がなされました。「近衛上奏文」はこの足跡をまことにリアルになぞっていますが、読めば読むほどに、果たして近衛文麿は本当に踊らされただけなのかという、素朴な疑問が湧いてきます。

 大日本帝国崩壊史

 A(右翼全体主義)とB(左翼全体主義)、二つの道の辿り着くところは同じ

 A「軍閥官僚暴政史」
 B「共産主義世界革命の一環としての敗戦革命謀略史」

 支那事変の表の顔 
 A「日本陸軍の暴走」
 B「共産主義者に操られた軍部・近衛文麿」

 二つの道筋
 A「歴史上最強の軍部独裁政権を夢見て軍部崩壊に至る」
 B「進歩的革新勢力が政治を壟断し、大東亜の解放を謳って敗戦革命へ」

 支那事変の思想
 A「統制派=革新官僚 統制経済による国力強化」
 B「共産主義者 統制派を利用して敗戦革命へ」

 Aを裏で操った者 尾崎秀實、風見章等の共産主義者
 Aを裏で操った者が目途としたこと 大東亜の民族自立を煽る→支那事変長期化→日米戦争へ→敗戦革命
 
 帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ(コミンテルン第六回大会決議)
 帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領
  ①自国政府の敗北を助成すること
  ②帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
  ③民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
 〔1〕39頁

 敗戦革命のため、戦争長期化へのプロパガンダ
 日本におけるプロパガンダ
  英米帝国主義の傀儡国民政府打倒(国民政府を対手とせずの声明へ)
  大東亜諸国の解放(南進政策・北進回避でソ連を救済)
 シナにおけるプロパガンダ
  1935年コミンテルン第7回大会決議、中国の敵は日本であることを決定
  抗日人民戦線運動が加速

 支那事変長期化、和平工作妨害の具体例

 1936.昭和研究会発足
 近衛内閣のブレーントラストとなる。尾崎秀實を中心とするコミュニストと企画院革新官僚によって構成され、近衛内閣と世論形成に絶大な影響を与える。

 1938.春、第一次近衛声明のあと、蒋介石や国民党首脳と極めて親しい茅野長知によって和平工作が進められます。
 しかし、尾崎秀實一味が日本と国民政府それぞれに、国民政府も日本も戦意を喪失しており、もうすこし戦争を続ければ相手は屈服することを伝え、和平交渉を断念させます。この画策をしたのが、尾崎秀實、松本重治、西園寺公一等の共産主義者であり、国民政府側では高宗武でした。

 1939.武藤章陸軍省軍務局長時代
 転向共産主義者(転向を仮装した共産主義者)が召集将校として陸軍省の部局に起用され、統制派軍人の理論が強化されます。

 1940.汪兆銘政権擁立
 高宗武、尾崎秀實、松本重治、西園寺公一、犬養健、影佐禎昭一派の工作により、汪兆銘担ぎ出しが成功します。汪兆銘擁立により、国民政府との和解の道は閉ざされました。

 1941.企画院の共産主義者逮捕
 統制経済の実権を握り統制法を乱発して経済機構を麻痺させた革新官僚の実態

 1941.リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀實逮捕・刑死により謀略が露顕する


 大東亜戦争(日米戦争含む)の要因は多様ですが(ベルサイユ体制、ルーズベルト大統領の欠格等)、和平の道を閉ざした第一次近衛声明は大東亜戦争の分水嶺になりました。
 駐支ドイツ大使のトラウトマンによる和平工作には石原莞爾も関与していました。近衛声明の前日の大本営政府連絡会議では激論が飛び交い、参謀本部の実権を持っていた(総長は皇族の閑院宮載仁親王)多田駿参謀次長は懸命に反対したのです。にも拘わらず、なぜか、優柔不断な近衛文麿は声明を強行しました。

 おそらく、こういうことだったのでしょう。
 「
不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候
 近衛上奏文より(上記にリンクあり)

 第一次近衛声明の後、茅野長知氏らの和平交渉を妨害したメンバーが、汪兆銘政権擁立に動いているのですから、どうしようもありません。
 汪兆銘擁立を支援した以上、蒋介石と和平交渉などできるはずがないのですから。

 「
国民政府を対手とせず」の声明に呼応して、3日後の1月19日の読売新聞夕刊に、さっそく「長期戦の覚悟」という三木清の論文が発表されています。
 「
いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それは勿論、新しいことではなく、事変の当初から既に予想されていたことである。今更改めて悲壮な気持ちになることはない。・・・・・
 〔1〕149頁

 平成28年正論5月号「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」で、林千勝氏が尾崎秀實の盟友・風見章を論じています。風見章は近衛内閣の書記官長(現在の官房長官)、司法大臣の要職にありました。
 風見章は、昭和26年雑誌「改造」5月号で尾崎を「マルクス主義の殉教者」と位置づけて、こういっています。
わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」、 ・・・近衛内閣がどのような性格であったか明らかだろう。

 「
・・・風見の中国共産党とのパイプが、戦後の左翼反米運動の基本的な構図を打ち建てていたのです。現代の日本人にとって戦前・戦中と戦後とは断絶しているかのようですが、中国共産党や日本の左翼にとっては紛れもなく大きな一つの流れであり、太くしっかりとつながっています。
 彼らの反日謀略の系譜は脈々と引き継がれてきています。日本は真剣に自らの近現代史を見つめ直さねばなりません。そのことがわが国の安全保障を強固にする第一歩なのです

 〔4〕
 3-3 ゾルゲ・尾崎事件の総括


 参考書籍
 〔1〕三田村武夫著「大東亜戦争とスターリンの謀略」自由社 2009.2.25
 〔2〕日下公人・上島嘉郎著「大東亜戦争『失敗の本質』」㈱PHP研究所 2015.12.8
 〔3〕林千勝著「日米開戦 陸軍の勝算」祥伝社 2015.8.10
 〔4〕正論5月号「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち・林千勝」2016.5.1



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