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スパイ天国・日本

インテリジェンス


 『日本の諜報』は行き過ぎ?NHKの番組制作こそ扇情的だ(特別寄稿)
 http://agora-web.jp/archives/2032741.html
 「電波部が何をやっているのか」より詳しく公表しろ、というのが、NHKのスタンスなのか。万一そうなら、もはや尋常な感覚ではない。世界中探しても、そんな諜報機関も放送局もなかろう。

 1980年代からスパイ防止法が議論され法案も提出されたが、「報道の自由」を盾にマスメディアは一斉に反対した。自民党内でも谷垣禎一氏のように「国政に関する情報は主権者たる国民に対し基本的に開かれていなければならない」という反対意見もあり、結局廃案になった。

 2004年に日本の上海総領事館に務める日本人男性が、チャイナのハニートラップにかかり情報漏えいを強要されたが、男性は機密を守るため遺書を残して自殺した。国家の存立に繋る機密を無防備のままにして、取扱者に全ての責任を負わせてはいけないと思う。

 谷垣氏の主張は一つの側面ではあるけれど、インテリジェンスは単に情報に止まらず、諜報活動、サイバー・インテリジェンス及び対外インテリジェンス等を含み、防諜(カウンター・インテリジェンス)や謀略等とも関連していて国家の存亡を左右する重要なファクターである。
 以下、インテリジェンスは防諜、謀略を除き、諜報活動を含んだ意味で使っている。

 西山事件/「報道の自由」は錦の御旗か
 1970年の第3次佐藤内閣当時、毎日新聞社政治部記者が沖縄返還協定に関する日本政府とアメリカの密約情報を入手して野党議員に漏らした。情報の入手過程がスキャンダラスだったため、報道の自由を盾に取材活動の正当性を主張していた毎日新聞は非難を浴びることになった。

 レフチェンコ事件
 1982年アメリカ下院の特別委員会で、ソ連国家保安委員会(KGB)の少佐、スタニスラフ・レフチェンコが日本国内での世論や政策が親ソ的になるような積極工作(アクティブ・メジャーズ)をしていたことが暴露された。
 レフチェンコ氏は現在アメリカの国籍を取得しているが、ロシア国内では死刑判決が下りている。そのことからも、「KGBの見た日本」という自叙伝の翻訳版は読むに値すると思う。もっとも、英語版「On The Wrong Side」は、翻訳版ほどの日本賛美はないそうである。

 ボガチョンコフ事件
 ロシア連邦軍参謀本部情報部(GRU)のヴィクトル・ボガチョンコフ駐在武官が、日本の海上自衛隊三佐から機密書類を取得した。2000年9月に拘束されたが、ボガチョンコフは任意同行を拒否して悠々と成田からモスクワに帰国した。

 なぜ、スパイ防止法すら持たない間抜けな国になったのだろうか。
 江藤淳のいう「閉ざされた言語空間」の中で無意識に歴史認識が偏り、衡平な感覚を失ってしまったのかもしれない。あるいは、プロパガンダに翻弄されて色眼鏡で歴史を見ているのかもしれない。国力は、軍事力、経済力、技術力及び地勢等の要因があるが、国民の資質も重要である。

 日本の命運を決めたシナ事変・日米戦争等の誤った歴史認識が、現在の脆弱なインテリジェンスの元凶になっているような気がする。

 日清戦争後ドイツのヴィルヘルム二世による「ヨーロッパの諸国民よ、君らの神聖な宝を守れ」がひろがり、黄禍論(イエロー・ペリル 人種差別論)といわれるようになる。
 いわゆる、独仏露の三国干渉(遼東半島返還請求)の背景である。

 日清戦争の勝利により清(下関条約による)から割譲された遼東半島だが、白人なら許されるが日本には認めないということだ。やがて、アメリカの日本移民排斥運動になる。
 そもそも、「帝国主義=軍国主義」の時代に、「軍国主義悪玉論」では議論にすらならないし、背後の世界が視界に入らない。

 南北アメリカ大陸等の先住民虐殺、植民地におけるプランテーション及び世界恐慌後の欧米列強によるアウタルキー(自給自足経済・ブロック経済)等、ひたひたと迫る列強の重圧が満州事変に繋がる。
 世界恐慌後の先発帝国主義国によるブロック経済から弾きだされた日・独・伊三国等が、生き残りを模索しつつ、全体主義(共産主義を含む)に傾斜していく世界史の流れを捉えなければならない。

 世界恐慌はマルクスの「資本主義は必然的に恐慌になる」いう予言が的中した結果となって、マルクス主義が世界に拡散した。日本でも共産主義が浸潤して、やがて兵営の垣根を越え、二つの全体主義(右翼・左翼)の葛藤が戦前の歴史である。

 さて、上記のような帝国主義の攻防と共産主義の拡散の中で、「尾崎・ゾルゲ事件」が起きる。私たちは、日本の命運を左右したこの重大事件を忘れることができない。尾崎秀實(ほつみ、以下尾崎)は二つの全体主義を、実に見事に操った。尚、「尾崎・ゾルゲ事件」は尾崎の側から見れば「謀略」である。

 「尾崎・ゾルゲ事件」という空前のスパイ事件について 
 尾崎は朝日新聞退社後、シナ問題の専門家として名を馳せた。朝日新聞で尾崎の同期だった田中慎次郎氏と朝日の磯野清氏が尾崎に情報を流したことで逮捕されている。直接の容疑は山東省台児荘付近の戦闘において、日本軍の二師団の内二支隊が大敗北を喫する原因となった作戦計画の露顕だが、この計画を尾崎に伝えたことによる。
 しかし、まもなく釈放され、田中慎次郎氏は1959年に朝日新聞社取締役出版局長に就任する。チャイナ派の広岡知男氏や、ソ連派の秦正流氏等のように朝日の戦後体制の形成に貢献した。

 尾崎は近衛文麿を操り、大東亜共栄圏構想に便乗して世論を動かし、日本を伝統的な対ソ戦重視から、南進(仏印進駐)、シナ事変完遂(シナ事変長期化)へと転換させた。
 尾崎の主張に呼応する当時の朝日新聞の紙面には、「暴(シナ)膺懲(ようちょう)」、「鬼畜米英撃滅」等の過激な見出しが躍っていた。

 尾崎の画策を時系列にまとめると次のようになる。
 1938年 春、第一次近衛声明のあと、蒋介石や国民党首脳と極めて親しい茅野長知によって和平工作が進められた。しかし、尾崎一味が日本と国民政府それぞれに、国民政府も日本も戦意を喪失しており、もうすこし戦争を続ければ相手は屈服することを伝え、和平交渉を断念さる。この画策をしたのが、尾崎、松本重治及び西園寺公一等の共産主義者であり、国民政府側では高宗武だった。

  1939年1月16日 陸軍参謀本部の反対に抗い、近衛文麿は「国民政府対手とせず」の声明をだす。事変拡大のための予算措置がとられ、近衛のブレーン(昭和研究会・尾崎外)によるシナ事変長期化の世論涵養が繰り広げられる。大東亜共栄圏構想を吹聴し、民族の自律と解放を高らかに謳うプロパガンダが進行する。

 1939年 武藤章陸軍省軍務局長時代
 転向共産主義者(転向を仮装した共産主義者)が召集将校として陸軍省の部局に起用され、統制派軍人の理論が強化された。

 1940年 汪兆銘政権擁立
 尾崎、高宗武、松本重治、西園寺公一、犬養健及び影佐禎昭一派の工作により、汪兆銘担ぎ出しが成功する。親日の汪兆銘擁立により、国民政府との和解の道は完全に閉ざされた。

  1940年9月27日 日独伊三国同盟締結

 1940年10月12日 大政翼賛会によって政党政治が終焉、右翼と左翼が合体して内閣は軍部の傀儡となる。

 1941年 企画院の共産主義者逮捕
 統制経済の実権を握り、統制法を乱発して経済機構を麻痺させた革新官僚の実態は共産主義者だった。共産主義者は、戦後右翼の陰に隠れて批判されることはない。尚、尾崎は共産主義者だか、本人はコミンテルンの一員と思って敗戦革命を画策していたようだ。

 1941年 リヒャルト・ゾルゲ、尾崎逮捕、そして刑死
 尾崎の手記はいずれも大事を成し遂げたという安堵感に溢れ、巣鴨拘置所でゾルゲとにこやかに話す姿を見た者は多い。左翼の文筆陣は尾崎を殉教者のように扱ったというが、現在の歪んだ言語空間を考えると、尾崎は戦後も生き切ったといえる。

 日本のインドシナ進駐後アメリカはさらに強硬になり、ソ連のスパイだったハリー・デクスター・ホワイト(末尾に記載)によって書き換えられたハル・ノートは日本を追い込み、日本は真珠湾の奇襲を決断した。ルーズベルト大統領(以下FDR)は、さぞかしほくそ笑んだことだろう※。
 この過程こそインテリジェンスの戦いであった。が、戦後の日本人は無視した。
 ※日米戦争の原因はFDRの思惑が決定的に重要だけれど要点から外れるので省略する。

 ソ連を救った尾崎の一報
 「日本はソ連を攻撃しない。南方のインドシナで作戦を開始する」

 スターリンは、ドイツと日本との二面戦争をどうしても避けたかった。尾崎の貴重な一報によって、スターリンは極東の兵力を西に移動させ独ソ戦に勝利した。(実際は、尾崎以外のルートでも伝えられていたようだ)
 1964年、尾崎を操って南進の情報をソ連に伝えたリヒャルト・ゾルゲに、ソ連は「ソ連邦英雄勲章」を授与した。多磨霊園のゾルゲの墓には、ソ連崩壊後も新任のロシア大使が墓参しているという。

 この重大なスパイ事件が日本で全く論じられず、冒頭のNHKのごとく陳腐な報道が繰り返されている。
 国防の概念を喪失したオールドメディアにとって、インテリジェンスは魔物になるらしい。ガラパゴス化とは、孤立した環境の下では最適化(反日)だけが進行して外部との互換性を失い、やがて淘汰されることをいう。オールドメディアのガラパゴス化は日本のインテリジェンスの重大な欠陥になっている。

 ※参考
 ハリー・デクスター・ホワイトとブレトン・ウッズ体制
 1944年7月、アメリカ合衆国のブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)において、戦後の国際金融制度が議論された。ジョン・メイナード・ケインズ案とホワイト案が提起されたが、ホワイト案の「ドルを基軸とした固定為替相場制」が採用された。これをブレトン・ウッズ体制といい、協定締結国は①為替の安定と②金融の自律性を保持し、③資本の移動を制限した(世界金融のトリレンマ、①為替の安定・②金融の自律性・③自由な資本移動の三つは、同時に選択できない)。ブレトン・ウッズ体制は1971年のニクソンショックまで続いた。資本の移動を制限したので、戦後の資本主義が最も健全に発展した期間となった。
 ヴェノナ文書により、ハリー・デクスター・ホワイトがソ連のスパイだったことが明らになった。ホワイトが仕上げた「ハル・ノート」が、日本の退路を断ったのである。これほどの高官がソ連のスパイだった。

 参考書籍
〔1〕長谷川ひろし(熙に似る、上部が臣と己)著「崩壊 朝日新聞」
    ワック㈱ 2018.6.26

〔2〕 三田村武夫著「大東亜戦争とスターリンの謀略」自由社 2009.2.25

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