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税理士・社会保険労務士
青山税理士事務所
  

裏口からの参戦

事は言なり

 ロシアのウクライナ侵攻については、多様な情報が溢れている。ロシアのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)のスプレッド(保証料)も参考になるだろう。ベーシス・ポイントで表記され、1bp=0.01%、100bp=1%である。

 参考:
 Credit default swap(CDS)
 https://www.nomura.co.jp/terms/english/c/cds.html
 ロシア国債のCDSプレミアム、750bp突破-2009年以来
 https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-02-24/R7T53NT0AFB40

 さて、本題である。
 正しい歴史観を失った現代の日本人は、プロパガンダに翻弄され易い。前掲のように、価格差、金利差及び保証料等のようなスプレッドが必要だ。これが本居宣長のいう「事は言なり」だろう。歴史(事・こと)は、歴史の中で語られた「言(こと)」なのだ。

 日露戦争は、朝鮮半島と満州の権益を争う戦いだったが、日本が優位に展開していた。しかし、賠償金を放棄した日本国内の状況は、講和条約に不満を持った国民による日比谷焼き討ち事件等が起き不穏だった。

 1927年の時点でJPモルガンのラモントが言うように、当時中国で安定しているのは満州だけで、略奪や山賊行為の蔓延る中国から満州に多くの中国人が流入していた。

 張学良は日本から1億4300万円の巨額融資を受け、張作霖と新線を建設した。その鉄道からの収益が彼らの資金源であったが、日本からの借款を返済する気はもとよりなかった。
 国民党政府も、1930年までに日本から9億5300万ドル(利子含む、著者注、現在価値でおよそ143億ドル)の借款があったが返済しようとはしなかった。
 この資金は、中国政府の第一次大戦の戦費等に使われたが、国民党政府はこの借金が存在することを認めず、日本からの返済要求に冷淡であった。

 あまつさえ、徹底した反日工作を実施した。日本人がおぞましい被害を受けた「済南(さいなん)事件」を、初等教育において逆に日本により中国人が被害を受けたと歪曲した。しかも、その状況を教育課程で描かせるようなことまでした。
 ※済南事件は単なる武力衝突ではない。「何が起こったのか」、日本人として当然知るべきだろう。

 1915年に調印された21ヵ条の条約では、日本における満州の権益を認めたものだった。しかし、中国政府は、袁世凱が日本に強要されて調印したもので無効であるとした。
 日本は中国の主張が認められれば、ドイツに対するベルサイユ条約も無効となると反論した。ドイツがいかにベルサイユ条約の無効を主張しても、認められないのは自明であろう。当時の日本は、国民党と中国政府は一体であると見ていた。

 このような状況ながら、1930年の対中貿易は日本の貿易総額の17.7%を占めていた。しかし、中国政府は日本製品をボイコットし続けた。1931年、満州事変が起こると改めてボイコット運動を再開した。
 この年の夏、中村大尉射殺事件が起きている。遺体は証拠隠滅のために焼かれた。

 リットン調査団も共産主義の拡散を懸念するようになっていた。1931年秋には、福建、江西及び広東の一部はソビエト化していた。日本はリットン調査団に、共産主義の危険性と中国政府の統制力の欠如を訴えた。

 日本は、満州の権益が中国のナショナリズムと共産主義によって雲散霧消することを恐れた。リットン調査団も、共産主義の拡大を懸念するようになった。

 当時の日本の置かれた立場について、日中両国の仲介役を果たそうとした(ジャーナリストの)ジョージ・ソコルスキーが次のように書いている(1931年)。

 
二つの力が日中両国を反目させていた。ソビエトと国際連盟である。ソビエト・ロシアは、1924年以来、中国国内における外国人への憎しみを煽る工作をしかけていた。もちろん排除すべき外国人にはロシア人は含まれていない。彼らは、特にイギリスと日本への敵愾心を高めることに熱心だった。
 国際連盟の代理人は長年中国に暮らすルドヴィク・ライヒマン博士〔物理学者・微生物学者。蒋介石および宋子文と深い親交があった〕だった。
 彼はとにかく日本嫌いだった。ライヒマンは、ポーランド人で国際連盟の職員だった。当時の日本は国際連盟のメンバー国だった。


 日本が中国に協調的だった理由の一つに日本の金融の脆弱さがあった。1931年ブルッキングス研究所のハロルド・G・ムールトン博士が日本の大蔵省に依頼されたレポートがある。
 
軍事費削減、アメリカとの友好関係の維持、人口抑制ができなければ、経済的にきわめて厳しい状況に追い込まれるだろう。それを回避するためには財政均衡と減税に取り組まなくてはならない。それにはとにかく軍事費を抑制しなくてはならない。

 上記のレポートだけで、日本の満州進出が積極的でなかったといえるだろう。東京にいたヒュー・バイアース記者は、北部支那の都市のいくつかを関東軍が占拠したが、そのことを日本政府は予期していなかったし、防げる性質のものでもなかった、と書いた(ニューヨーク・タイムズ紙)。

 1937年7月7日に起きた日中の衝突(盧溝橋事件)については、共産主義者が煽ったことは中国駐ソ大使の言葉で明らかだった。大使は1936年11月にモスクワに赴任しているが、米外交官に、中ソの強い友好関係があるからこそ赴任できたと語っていた。大使がモスクワに派遣された目的は、もし中国が日本を刺激し戦争になった場合、ソビエトから物資や武器を受けることを約束させることであった。

 ハル国務長官は共産主義者の脅威について何の関心も示さなかった。彼の関心は日本軍の無差別爆撃だけにあった。ハルの考えはグルー大使との長時間の会話の中ではっきり表れていた。
「 
・・・
 もし日本政府がわが国の7月16日の提案を受け入れていれば状況は改善していたはずである。
 ・・・」

 
ハルが言う7月16日の提案は、日本だけを厳しく非難したものだった。ハルは日中間の紛争にアメリカはどちらにも偏らない態度であったと述べたが、それは単なる外交上の体裁であり「でたらめ」であった。ハルの態度は明らかに反日本であった。


 参考書籍
 裏口からの参戦
 ルーズベルト外交の正体 【上】【下】1933-1941
 Back Door to War
 チャールズ・カラン・タンシル著 渡辺惣樹訳
 2018年8月28日発行 株式会社草思社 



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