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焚書という非道



平和ボケの根源

 【シンガポール=吉村英輝】フィリピンのドゥテルテ大統領が訪問先の北京で「軍事的にも経済的にも米国と決別する」と述べたことに、フィリピン国内や政権内部からは困惑の声が上がっている。習近平国家主席との首脳会談を受けた共同声明には、期待されていた南シナ海でのフィリピン漁民の権利保障も直接言及されなかった。ドゥテルテ氏は中国傾斜を鮮明にしたものの、領有権問題では空振りに終わった格好だ。
 http://www.sankei.com/world/news/161021/wor1610210051-n1.htm
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 ペルシャ湾、サウジアラビア等で紛争が勃発すれば、原油の輸入すら覚束ない。輸入するにしても、原油の約80%等はマラッカ海峡を経由している。ドゥテルテ大統領の動向によって、南シナ海がとんでもないことになりそうである。
 我国は、エネルギーセキュリティの極めて脆弱な国であるにも拘わらず、原発の不安だけが誇大に喧伝され、救いようのないマゾヒズムに酔っている。
 なぜ、これほどまでに人々の精神が頽廃したのだろうか。なぜ、「私」に重きを置き、「公」をなおざりにできるのだろうか。・・・そこに、「平和ボケ」の根源があるように思う。

 1946年5月3日、東京裁判の起訴状は、1928年1月1日から1945年9月2日(満州事変前から降伏文書調印の日)までの日本の「いわゆる非道」を述べている。
 勝者が敗者を裁くという茶番が法の名の下に演じられた。「裁判条例」という事後法で舞台を装飾し、あろうことか法の不遡及原則を等閑して復讐劇を見事に演じきった。
 巧みな舞台設定と完璧な演技によって、1928年より前の勝者の植民地におけるあらゆる残虐非道も、アメリカの空襲や原爆投下による無差別殺戮も、ソ連の理不尽な暴虐も悉く免責されてしまった。
 片方の敗戦国では、人権、人権とのたまう「いわゆる知識人」達も己の庭をでることなく、北朝鮮に拉致された多数の同朋を無視できたし、平和主義者も安全な場所から観念的平和論を唱えることもできた。
 「過ちは繰り返しませぬから」とひたすら恐縮して、専ら我欲に勤しむ人々が、経済界でも、アカデミズムにおいても勝者となった。「私」が「公」を凌駕して、大東亜戦争を戦った先人の勇気と、苦悩と、献身を忘却した無機質な、富裕な時代となった。
 切腹・介錯という衝撃的な自裁によって、精神の弛緩を警鐘した三島由紀夫を奇人扱いにすることもできた。

 GHQに奪われた約8000冊が、そのことを可能にしたのではなかろうか。苦難の時代を生きた先人の生の声や、時代の精神を、焚書が抹殺したのである。焚書は文化の破壊であり、非道の極みであろう。

 今日の地球の全面は名目上、アジア・アフリカ・アメリカ・ヨーロッパ・南極の五大洲に大別され更にこれを細分すれば、七十余カ国(著者注以下同じ:当時、独立国はこれしかなかったんですね。今は一九四か国です)。
 だがしかし、その実際上の細分にあたつては、左掲の図のごとく(図は省略)、驚くべき編断なる分け方が行われてゐる。
 すなわち、何とそれは、イギリス・フランス・ソヴエート連邦・アメリカ合衆国の四国によって、五十八%が支配され(著者注:この本の出版は昭和十六年四月です。そのとき、こうした勢力分布ができていました)、オランダ・スペイン・ポルトガル・イタリー・ドイツ・ベルギー・デンマーク・ブラジルの八カ国によって十六%が占められてゐるのだ。
 だから、他の日本・満州・支那・エジプト・コロンビヤ以下、〇.一七方哩(ほうり)しかもたないヴアテイカン市国に至る六十余国は、わづかに地球面の四分の一たらずのところを分けあつてゐるにすぎないのである。
 就中(なかんずく)、日本のごときは世界人口の約十分の一という厖大(ぼうだい)な人口を有しながら(著者説明:当時、日本の人口は約七二〇〇万人)、その面積たるや、その残された四分の一足らずの面積のうちのわづか一%をもつてゐるにすぎない。
 正しく、アジアの大部分は、現在われらアジア人の手にあるのではなく、欧米列強のふところにあるのだ

 
〔1〕235ー237頁 一部当用漢字に変えている。
  GHQ焚書図書「アジア侵掠秘史」桑原三郎著 清水書房 昭和16年4月より

 このような世界を俯瞰した視点を共有しなければ、あの時代の「気分」はわからないだろう。
 次の「米英東亜侵略史」は、大川周明の昭和16年12月14日から25日までのラジオ放送速記に僅少の補正を加えたもので、事態が逼迫するなかでまとめられたものだ。

 
「・・・東亜発展は日本にとって死活存亡の問題であります。さればこそ国運を賭してロシアと戦ったのであります、ところがアメリカの東洋進出は、持てるものが上にも持たんとする贅沢の沙汰であります。アメリカはその贅沢なる欲望を満たさんがために、日露戦争によって日本が東亜に占め得たる地位を、無理矢理奪い去らんとしたのであります。
 実にこの時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無人の横車を押しはじめたのであります。・・・」

 〔2〕45頁


 時代の声を聴き、先人の情念や情動を感じることが歴史を知るというものだろう。「気分」を感じて、はじめて歴史は繋がってくる。

 戦前は、大東亜戦争を長いタームで捉える見方が多かった。明治維新の20年前くらいから始まったと見るのである。
 1862年の生麦事件から1年後、イギリスの東洋艦隊は横浜を出港し薩摩に向かう。いわゆる薩英戦争である。同じようなことが長州でも勃発する。ただ馬関戦争は薩英戦争よりはるかに規模が大きい。英仏蘭米の四か国連合艦隊は充分な準備をして臨んだため、総兵力は薩英戦争の比ではない。
 とはいえ、薩摩と長州の懸命の抵抗によって、イギリスに、これを占領し確保することは東洋艦隊の全兵力を総動員しても不可能あろうと思わせた。明治維新は、壮絶な外圧と新たな体制内における外と内の葛藤だった。
 長州の若い家老清水清太郎が、イギリス帰りの井上馨と伊藤博文に言った言葉が残っている。
 「おれは今後五十年間、攘夷を腹の中におさめて、お前らの開国論に従う」
 大東亜戦争へと辿る100年の歴史のひとこまである。
 〔3〕

 長州の若い家老のような気骨が明治維新の精神であり、大東亜戦争までの100年の戦いを支えた。「明治は良かったけれど、戦前はダメだった」という、分断的な善悪二元論で割りきれるものではない。その類の歴史小説を読んで、歴史がわかったような思い違いをすることほど愚かなことはなかろう。
 私たちは大東亜戦争を戦った先人の「気分」を忖度し、敗戦を「我が事」として受け入れなければならない。
 その時初めて歴史は繋がり、「平和ボケ」から覚醒するだろう。

 
「戦争は潜在的平和であり、平和は潜在的戦争である」/ 福田恆存


 ※焚書について

 〔1〕西尾幹二「GHQ焚書図書開封2」鞄ソ間書店 第2刷 2012年
 〔2〕佐藤優「日米開戦の真実」鰹ャ学館 第3刷 2006年
 〔3〕林房雄「大東亜戦争肯定論」夏目書房第 2刷 2001年



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